昭和52年07月02日 朝の御理解
御理解第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
三代金光様も、信心には辛抱する事が一番大切でございますと教えておられます。一番大切なのが辛抱だと仰るのです。ですから、初めからなかなか、その辛抱力がある人はめったにありません。けれども段々稽古をしておる内に、いわゆる力が付く辛抱力という力が付くのです。だから辛抱する、結局稽古をさせて頂くこと。同時にその辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと仰られますね、だから問題は、その身に徳を受けるような辛抱でなからなけばいけない事が分かります。
ただの辛抱じゃいけない事がわかりますね、只々の辛抱では、いうなら我の力が強くなるというだけではいけません。それこそ歯を食いしばっての辛抱ではいけません。そこで身に徳を受ける修行じゃと仰せられるような、修行とはどういう修行を、かとまあ言う事になります。昨夜、月次祭が終わりましてからお客さんがあるという。応接に通してありましたから参りましたら、今度のあっちは全国区ですかね、柳田さんは。柳田(桃太郎?)さんね。地方区ですか。の娘さんという方がみえておりました。
昨日は何とはなしに朝からそういう政治関係にかかわりのある人が朝からずっと続き、みえておりました。それであの、選挙の事なんかお願いに参ってみえたりね、いろいろ、あの、みえられましたが、昨日御月次祭の時にみえたの時に、あの御挨拶されましたのは、あの古賀(誰四郎さん)とかいう方のお兄さんでしたね。御月次祭が終わってみえたのは、柳田桃太郎さんの、娘さんという方です。なかなか立派な方でした。同時にもう心からお父さん、桃太郎さんの事を褒められるんです。
もう本当に家の父には感心します。それがね、例えば宣伝じゃなくて、本当にあのう子供さん達が、家の父には父は間違いないと、信じきっておられると言う様な様子が、もう本当にお話だけじゃない、もう体全体から感じられましたですね。しかしまあ本当にあなたのように、親の事が手放しに褒められるって、あなたは幸せですねっていうて言うた事でした。もう本当に手放しで、そのう褒められます。もうとにかく酒も飲みません、タバコも吸いません。
もう本当にこれが世のお役に立つと言う様な事に、もうそれこそ実に献身的だそうです。それを目の当たりにいつも見ておる身内の方達が、もう家の父はもう感心じゃある、もう本当に偉いとやっぱ言う所まで、本当に感じておられるのであろうと思わせてもろうたがね、段々お話をしよりましたら、あのう大分の八坂先生の弟息子さんの嫁さんに私の妹がいっておりますちゅう事でした。
それで八坂も是非一遍こちらの教会にお願いに上がりたいっちいうて申しておりますと言った様な事も言うておられましたが、本当にそのう子供から信用される親、親から信用される子供、こんな幸せはないですね、信じようと思うけれども家の親父だけは信じられない。家の家内だけは、家のお父さんだけはと言う様にです、信じ信じられる仲というものがです、私は信心の根本じゃないかと思うです。
はあもう家のお母さんはほんな口ばっかり。これだけでももう信用は、子供からでも、もう主人からでもそうですけど、第一その子供からでも主人からでも信用を受けられない。もう家の家内だけには感心します。うちのお父さんだけはとね。しかもそれは私は信心の根本になるものだと。なるほど三代金光様が教えておられます、信心には信心辛抱が一番大切でございますと仰せられたじゃが、しかもその信心辛抱というのは、身に徳を受けるほどしの辛抱だというのです。
ここにもそれがありますね、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。世の中には様々な辛抱強い人があります。信心は無くても辛抱強い人がある。そんならそういう辛抱強い人がみんな徳を受けるかというとそうではありません。むしろ段々年をとるにしたがって我力が非常に強くなりましてね、いうならばがんこじじいになったりね、こんにゃくばばあになったりしてしまいます。
はぁあんたどんのごつ若い時にはこうじゃった、なるほど辛抱していうなら世に名を成したり、または財産を作ったりする、人達はやっぱりこの辛抱力が強いのです。だからただの辛抱力ではいけないと言う事です。いうならばもう子供からでも手放しに褒められる親にならなければならないと言う事ね、親からでも手放しに褒められる良い子にならなければならないとね、そこに私は信心の根本はあると思います。
ですからね御神徳とはね、神の信用じゃ、久留米の初代は教えておられました。神様からの御信用じゃとね、その神様からの御信用を受ける前に、まず子供から信用され、家内から信用されね、主人から信用されるね。これは信心辛抱させて頂いておるとき、それは最近ここ二、三日御理解に出ておりますす、それが非情であったり、非合理的であったりね、という非常識であったり、または非道徳であったりね、信心には確かにそういう面があります。道徳であってはならんというのじゃないです。
しかし信心でいう道徳というのは、それをもう一つ越えたものね、まあ例えて申しますと、教祖様がご修行の頃、神様からいちいちとお知らせを頂かれる時分、今日は親戚の誰それが亡くなったぞと。親戚の者を連れのうてお悔やみに行くようにとお指図がございます。もう教祖様はもうそれこそビックリされましたでしょうね。それで親戚の者身内の者に只今から、只今神様からこういうお知らせがあったから、今からすぐお悔やみに行くと言うておいでられたところがね。
当のご本人が表へ出て、こりゃ皆さんお揃いでと言うて出てみえた。まあそん時の事、こりゃまあ御伝記にはそういう風には載ってませんけども、こりゃ私が思うのですけれども、本当に穴があったら入りたい思いでは、おありにならなかっただろうかと思います。ね、もう本当にもう文さんがもう信心のぼせして、この頃はもうどんな事でも言うたりしたりすると。困ったものだという風には、親戚の方でも言うておられませんですね。もうどうして神様の前にああいう純真な。
いうならば態度で臨まれるであろうかという風に、もうほとほと感心しておられます。いかにその日頃教祖様の、いうなら御信心ぶりだけではなくてその生活態度というものが素晴らしかったかと言う事が分かりますね。そして神様に只今おそらくね、頂いた事が自分の頂き違えたり、違いではなかったろうかというふうに、ま思いもなさったでしょう。神様に御届けをされると、戻しの風は重層倍と言うてかえられたんですね、これが素晴らしいんですね、戻しの風は風は重層倍、。
いわゆる神様の御信用でありますね、もうこの氏子はどんな事を言うても神の言う事に逆らわない。一切を「ハイハイ」で受けていくね、しかもそれはどんな場合であっても、ね、結局有り難いという答えだけしか出てこない。それこそ戻しの風は重層倍、戻しの風は重層倍というて帰れと仰せられる神様のお言葉をそのまま、やはり言うてお帰りになったであろうと同時に、そのまま神様のそれが、そのまま御信用になったと言う事になります。神様からの御信用、ためにはまずね、
村の人たちからでもね、親族いうなら家内子供からでも信じられる教祖様ね、同時に天地の親神様からの、もう絶大な御信用を受けられ、絶大ないうなら御神徳をお受けになられたと言う事が分かります。辛抱していく内に身に徳を受ける、それが修行であると。雨とか風神参りをするにと言う事はね、信心というものはと言う事でしょう。信心させていただく者はそれはね、雨風だけではない、いうなら様々な難儀な問題、様々な困った問題なんかに直面した時でもね。
これがまあいうなら、雨でもあろうか風でもあろうかという頂き方をさせてもろうてね、そこを辛抱しぬくと言う事ね、そこを信心によって辛抱しぬくと言う事ね、だからただの辛抱では身に徳を受ける修行と言う事にはなってこないね、そこでそれをどう受けさせて頂くか。辛抱かと言う事になるのです。私の修行中にもずいぶん親戚の、者も心配を致しました。大体仕事をすりゃあ仕事ができる。
まあ仕事とできませんけれども、御商売なら小さい時から、まあ商売人になるために商売の道を、いうならば修めて一角の商売人になろうという願いの元に、おかげを頂いてまいりましたから、いうなら商売をすりゃあ人並み以上の事ができるのにね、商売はもうそっちのけにしてしもうて、それこそ神様の仰せどおりに、さあ今日は東、今日は西というような風に、それこそ破れ服着て破れカバン下げて、破れ靴を履いてもう近いも遠いもない、暑いも寒いもない。
もう只々一心不乱に、神様の仰せどおりに仕っておったという時代なんですね、そこで両親に親戚の者たちがね、心配をしてからどうとか、あの今のような事じゃそれこそ信心気違いになってしまう。というてね再三やはり忠告に来てくれました。模様でございましたね、けれども母がいつもそういう時に答えておる事はね、もうどの様な寒中でも、朝晩あの人が水垢離をとって、もうこそこそ生神金光大神様を唱えし続けておる時の様子を見たらね、どうとも言われんとね、あの一生懸命の姿にはどうとも言われん。
もうこれだけだったんですね、いうなら私がねいうなら、本当に親にでも勿論家内子供にでもですけれども、普通のいうなら食事一つ、本当の食事を与えられない程しの時代でありましても、神様の仰せにだけはそむかれないという生き方をです、その修行の姿にです、いうなら両親が、いうならば、あのいうなら、息子を信じておったと言う事になるのじゃないでしょうかね、いうならば私は両親に信じられた。それこそいうならば、家の息子は日本一の息子と、いうならば思うておったと私は思います。
そこにです私が段々信心よって、人が助かる事になって、来る様なおかげの元があったと思うのですね、家内がもうどんなに修行の場合であっても、なら私のする事言う事にです、もうそんな事しては困ります、そんなことじゃ私達はどうしますかというて、私に嘆きを言うた事がございませんでした。もう只々黙ってついてくるだけでした。それはやはり、私を信じておるからだと思う、ておったからだと思うです。私共の子供たちがね、私がどういう風に見ておるかと言う事はですね。
そりゃ私の欲目からかもしれませんけれどもね、心からそれこそ桃太郎さんじゃないけれどもね、信じきっておると私は信じます。子供から信じられ、家内から信じられね、そして、親からも信じられ、世間の人からも信じられるね、そういう信心がですそういう信心が信心辛抱になってくる時に初めて、いうなら徳を受けると言う事になるのじゃないでしょうかね、それを信心辛抱と言うのではないでしょうか。
そりゃ辛抱というのですからね、それこそ血の涙の出るような思いをするような事もありますけれども、それが有り難涙に変わる程しのおかげを受けると言う事は、やはり辛抱です。はぁあげなんとに負けるもんかと言った様な我力ではなくて、只々ね神様へ向けての信心辛抱ができる。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと言う事をね、なら身に徳を受ける程しの辛抱とはという事を今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。